里海と里山について(3)
波平さんのコメントに答えて(その3)
(13)波平さんがコメントの中でお名前をあげた、内山節(うちやま・たかし)さんは、わたしも尊敬してやまない方です。思い出すのは、内山さんの本で、はじめて読んだ『山里の釣りから』(1980年・日本経済評論社)のなかで、「現在、各地における川の荒廃は眼をおおわんばかりであるが、それは川が労働の対象ではなくなったからである。」と気持ち良くズバリ言い切っていたことでした。そうだよ、大切なのは「労働」なんだよ、と強く頭に残りました。
(14)そのフレーズのあとで、「川の思想には私は水の思想と流れの思想があると思う」と書きます。この本以降でも終始一貫して内山氏が批判を続けてきた、「川の思想を水の思想に一元化していく発想」の「水の思想」とは何でしょうか。
(15)近代日本が、「便利(利便)さ」という一元的な「利用目的」の選択肢を絞り込んでいくことで、「川の(流れの)思想」を死滅させたというのです。ものすごく簡潔にいえば、「水の思想」とは「水の(便利さをもとめた利用)の思想」ということでしょう。
(16)つまり、川は、流れであることによって生命体をはぐくみ川漁(猟=広い意味では川遊びも含まれます)という労働の対象であり続けてきたのです。ところが、近代以降「川の流れの思想」をやめて、便利に利用するための、例えば用水や水害防災等々という「用途」に置き換えてきたことが、川の荒廃そして死滅につながったというわけです。
(17)これは、近代の日本が、そして日本人が選んできた道であったわけです。この歩んできた道を、いまさら、良いの悪いのといっても後戻りはもうできません。内山さんは現在に到るまで、こうした人間と「自然と労働」のかかわり、方法についてのテーマを追い求めて、その結果として、荒廃そして死滅につなげてしまった川や山や森を、すこしでも「労働の対象」に組み戻すことが、現代のマチやムラに生きる人々にとって、近代から現代たどってきた道を省みたうえで、現在、そしてこれから選ぶ道なのではないか、ということを語り続けてきたのだと思っています。(その4に続く)
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