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2006年9月27日 (水)

里海と里山について(1)

波平さんのコメントに答えて(その1)

  • 「波平さん」から次のようなコメントを頂戴しました。
  • “里山”っていう言葉は、内山節氏の活躍などがあって、もうすっかり定着した感がある。が、不思議と“里海”って言葉はいまいち通りが悪い。自然はほったらかしじゃなく適度に人の手入れがされてはじめて生き生きするのだってことが、この言葉を生んだのだと理解しているが、要は“人の云々”の、その“人”って誰のこと?ってところに問題がある。わたしは船釣りが趣味だ。しょっちゅう漁師の方々と接している。笑ったり怒ったりしながら…。
  • わたし、昨年と今年の2年間かけて、自分の小さなボートで、日本列島を大きく一巡りしたが、この間給油だけのために立ち寄った港を含めて約40数港に入港した。そのほとんどが漁港だった。追い出された港があり、歓迎してくれた港があり、様々だった。概して言うと、一宿一飯の情けを請うって感じで入港させていただいたのだが、漁民の皆さんのオラガ港の感覚には今更ながら驚いた。が、また、わたし自身の身勝手にも、反省すべきところは多い。
  • 本書によっていろいろ勉強し、啓発を受けたいと願っている。季刊だとか、それなら購読が可能だ。楽しみにしている。どうぞよろしく<(_ _)>。

いつもながらの波平さんと交わすMLのように返信を書いていたら長くなったので投稿欄に記します。

(1)第1号コメント(10月14日)が波平さんというのは、とても光栄です。「里海」(さとうみ)が、「里山」と同じように「市民」の多くの人たちに「認知」(とおりがよくなる)されるようになるかどうかは、波平さんを「怒」らせる「オラガ港」の感覚、それも海の男、波平さんすら「追い出そうとする」ヨソモノ排除のガンコで画一的な感覚にどう風穴を開けていくのか、ということにかかっているのだということなのですね。

(2)そういうつもりで「里海」を考えていこうと思います。

(3)しかし、現実の海の世界は、そんな都合のよいようには動いてくれません。「開けていく」というよりどうしたら「開くのか」という表現の方が適切でしょう。

(4)それよりも、課題の提起・探求の「か!」ではなく、「オラガ港」の排他感覚は、いったい「開くのだろうか」という諦めの疑問符つき「か?」になる場合の方が、きっと大勢を占めているのでしょう。

(5)「オラガ港」の排他性が、「地域」の秩序を安定させることのできた、ちょっと前の時代までなら、功罪相殺して、ヨソモノの海の利用者も「まあ一宿一飯の情」をうけて「しょうがないなあ」と思う程度で、なんとかバランスがとれていたのだと思いますが、これは、現代、通用しなくなりつつあるのも確かでしょう。

(6)どのように、現代通用しなくなっているのかということの「意見」(事実)をできるだけたくさん集めて本(雑誌)の形で、アナログ的に「理由」と「解決」の事例を整理をしてみたいと考えました。それが、[季刊里海]創刊の一つの理由です。(その2に続きます

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