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2006年9月30日 (土)

里海と里山について(4)

波平さんのコメントに答えて(その4)

(18)私は、その3の(17)のフレーズにある現代、選択している「自然と人間」「自然と労働」の方法のひとつの表現が「里山」を現代に位置づけている意義なのだろうと考えています。内山さんは、「里山」という言葉を著書のなかで(あまり)使ってはいません(おそらくですが……)。そのことはあまり重要ではないのですが、内山さんのいう「山里」を構成する自然と人間とのかかわりから「労働」(いわゆる内山さんがいう、働くことや暮らすことや遊ぶことなどなどを含めた広義の労働)が成立する場に組み戻していく手法を考え、実践していくことを「里山」運動と呼ぶことができるでしょう。あるいは、「里山を考える」ということなのだと思います。

(19)この「自然と労働」についての内山さんの思想に感銘を受けました。当時から海の利用と漁業者の役割を考える時に、「海の入会権としての漁業権」のことを、もっと市民社会でも理解できるわかりやすい表現に置き換えようと考えてきた私にとっては「海という自然と労働」の思想的な位置づけは、とても大切な考え方と心に残ることとなりました。『海の「守り人」論』の提案をへて、森や川と同じように「疲弊し死滅」し変貌しつつある「海」(沿海域・沿岸域。「浜」であり「地先」の海)に「労働」が成立するための仕組みを変えていく、あるいは「組み戻し」を考え、実験し、そして地域のシステムに取り入れていく行動を、「里海」運動として位置づけてみようと思いました。

(20)この場合の「労働」とは、前にも書きましたが、漁業や養殖業という「漁業法」や「水産業協同組合法」に規定されている「営業」や「事業」を指す労働を、いま仮に「狭義の労働」(漁業)とするなら、ワクをもっと広げて「海という自然域を活かしながら地域の人々が暮らしを続けていけるいろいろな営み」を考えたときの「広義の労働」を指しています。

(21)現代の海は、漁業という狭義の「労働」をも成立させる姿とはとても言える状態ではなくなってきています。ましてや、内山さんが「死滅」という言葉を用いたものに近づいているといっても言い過ぎではありません。だからこそ、従来の枠組みで成立してきた「漁業」という漁労の方法や性質やその生産を支えてきた漁協や漁村の「システム」に、もう一度、近代から現代に切り捨ててきたものに反省の眼を注ぎ、従来は漁業という狭義の労働の外側におかれてきた、非営利的な、あるいは生産行為をともなわない、その地域の人々の副業やオカズ確保程度の「採貝採藻」のような暮らしの労働や、市民の人々の「遊漁」(つり)や「ダイビング」や、遊漁をする人々を船に乗せて案内する遊漁船業などの「市民的利用」、あるいは「海の環境教育的な利用」までも「労働」の方法に取り入れて位置づけていくような、発想の切り替え(システムの組み戻し)が求められているのではないでしょうか。

(22)資源を回復させ、そして漁業生産を増やし経営改善に結びつけるという方向が「漁業」あるいは「漁協」「漁村」がとるべき道というように、漁業者の選択肢のハバを狭義の漁業の枠の中に限定すればするほど、少なくなった資源をサバイバルで採りつくすような悲惨な結末を招くような気がしてなりません。

(23)必要とあらば、地域全体の選択肢として、既存概念の「漁業」のかわりに、非生産的海面利用の手法による「稼ぎ」を考えるほうがサバイバルの近道であるかもしれません。ようするに、地域の特性を活かして地域のひとが「これをやってみたい」というときに、地域の人が試行錯誤のうえ選択し、実行できる緩やかな枠組みがあれば良いわけです。そして、それぞれの地域社会の人々が合意の上で作り上げられたルールを、地域外の人々も認めあっていくという「ローカルルール」づくりが、これからの地域に必要になってくるということだと思います。(その5に続きます

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