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2007年1月13日 (土)

今なぜ「海洋基本法」なのだろう?(その6)

「奪われたものを取り戻すこと」と「在るものを守ること」について

 こんなに長くなるとは思っていませんでしたが、いつものようにしつこいぐらい長くなってしまいました。とても読みやすいブログとはいえませんが、次の回に「目次」を載せますから、関心がありそうなテーマがあればそこからお入り下さい。

 結局のところ、海や川や水辺の管理と沿岸地域住民や流域住民の権利について考えてみたかったのです。

 海洋基本法に「開発」という二文字は消えていますが、1970年代に国土総合開発計画の一環としてとして策定された、海洋を国土と一体とした国(国土交通省)主導による「総合」「管理」の体制を敷くことを目的に策定された「沿岸域管理法」案とセットで立案された「海洋開発基本法」の考え方を受け継いでいるということを、これまで見てきました。

 海洋基本法が沿岸域管理制度とは切り離して法制化されるものなのかどうかは、これまで報道された記事からは読みとることはできませんが、はじめに書きましたとおり、「海洋」管理という概念から「沿海域・圏」を切り離すなど事実上出来るものでもないので、今回は、これまで議論されてこなかったといっても、沿海域(圏)管理をも当然視野に入れての制定趣旨であろうと、わたしは考えています。また、このかかわりについて、制定作業に入っている国会議員の委員の方々にも国民にきちんと説明を行なってほしいと思っています。

 最後に、海洋基本法という国と海洋とのかかわりを宣言し、総合管理する計画に基づき海洋管理政策が展開される時の、国民と海洋(特に沿海域圏)とのかかわりに、従来制度とくらべてどのような変化が生じるのかを、明確に示してもらわなければいけないのだと思います。

 例えば、川と流域住民とのかかわりを考える時、河川法制度においては、川は「公共用物」であり、「私権の目的」となることができない(河川法第2条)と規定されています。つまり、川の流域住民が、昔からその川の流れや河川敷や周辺域を利用して暮らしをしてきた事実があっても、法的には、流域住民の「私権」は排除されているのです。

 そのかわり、川や水辺の自然環境保護や流域住民の利用(アクセス)の要求、あるいは国(国土交通省や農林水産省)の総合計画行政によるダムや河川の行き過ぎた無駄な公共事業への批判を受けて、平成9年河川法が改正され、第1条目的に「河川環境の整備と保全」がうたわれることとなり、流域(地域)住民の意見を公聴会などにより河川整備計画に反映させる仕組みが作られました。しかし、広域的開発を基本においた総合計画行政に、そもそも、一定の共通する利害を共有する地域(流域)住民の個別、具体的な要求を聞き入れて計画内容を変更して予算額を修正したりするフレキシブルな対応が至難の、この国のシステムであるからこそ、環境に配慮したモデルケース的な新規事業を行なったり、住民の声を聞き入れたレアーな計画修正例は作れても、根本的な問題解決には至らないのです。

 平成9年の河川法改正(海では海岸法や漁港法等の改正)に見られる流域や地域住民という市民の声を聞くという公共事業の仕組みが変わったのですが、近年、住民参加型公聴会システムで、システムはあれども住民の声は反映されない硬直したお役所仕事の実体が垣間見えるようになってきました。

 このような平成9年公共事業関連法の改正後の国の対応に、河川行政に対しては「川を流域住民の手に取り戻そう」という、市民側からの、近代の歴史の反省と見直しを視野に入れた自然領域を「公」の管理権限から「私権」回復を要求する運動がおこってきています。

 海洋基本法の制定の動きに話を戻しましょう。

 川は、利水治水や防災という流域住民にとっての公共益の達成を人質に取られたかのように私権を排除された「公共用物」によって「官有地」といってもよい国の強い管理権限によって、流域住民の川への立入りや利用といういわば「地域権」(最近「里川」概念が登場してきましたが、里川足りえるかどうかのポイントが、この「地域権」の存否にかかってくるのだと思います)は否定されているが現実です。

 それでは、海はどうでしょうか。私が共著者として加わった「海の『守り人』論」(1996年)や「ローカルルールの研究」(2006年)で述べているように、漁協や漁村を構成する沿海地区住民の地先の海を利用したり管理したりしてきた慣習的権利(「地先権」)の存在が、漁業を営む権利としての実定法規に規定された「漁業権」とが一体となって地先の海域との「私権」的つながりが近代法が整備されて以後、現在にいたるまで維持されてきました。

 海については、流域住民から奪われた川の「流域権」というか「地域権」を取り戻そうという運動を起こすまでもなく、沿海地区住民の手に「私権」(漁業権)と「慣習」(地先権)は存在しているのです。問題は、沿海地区住民のうち資格を持っている漁業者と沿海地域住民と地域外の市民との協力関係を作り出すことが、これからの課題であろうと、私は考えています。「里海」の考え方は、その市民同志のつながりあいをベースにおいた、自然領域の利用と管理について考えていくことだと思います。

 海洋については、沿海地区住民の私権と地先権を守ろう、あるいは権利の実態を弱めようとする国の政策変化がおこったら、「奪うな」という運動になるわけです。「海洋」を国が「総合的」「計画的」に管理しようという考え方をとろうということは、つまり、現在、そのような管理権原を国が海に持っていないことからくる動きなのですから、わたしたち市民は、海という自然領域の管理と利用はどのようなシステムがよいのだろうかということを、しっかりと考えて、いまこそ、川の現状、水辺の状況、海や海辺の現状、山の現状、広い意味での国土の現状について、論議を活発にさせなければいけないのだと思います。

 私にとっての環境を考えるということは、そういうことですし、環境や資源を守ろうというときに考える時の原点にあります。

 海洋基本法の法案のなかみもきちんと検証する必要がありますが、国が海洋という自然領域を管理する姿勢を、あらためて宣言しようという段階に来たのですから、はじめに言いましたように、関係諸外国との資源戦争や権益争いという国益論の背景にある、わたしたちの身近に常に存在している海辺や水辺のテーマをきちんと見ておくことが肝要であろうと思います。奪われたものを取り戻すこともとても大切ですが、今現実に手元にあるものを奪われないように守ることもまた大切なんですね。森に木を植えて森を涵養し、水の流れを豊かにして川や水辺に昔のような流れを復活させ、海や海辺の自然の営みへとつなげていくことが里山、里川、里海を考えていくということになります。

 By MANA(中島 満)(C)2007年1月13日記す。

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