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2007年2月20日 (火)

コモンズとマイナー・サブシステンス(菅豊さんに聞く)

「共的世界」とはどういう世界?

 インタビュー冒頭の部分を、未定稿原稿としてすこしだけブログに載せてみましょう。これから、完成原稿を元に、菅さんにもたくさんの加除訂正をしていただき編集上の構成をして6~7ページ程度の掲載本文に仕上げます。どんなタッチになるのか、さわりの部分を、興味のある方はご覧ください。

070201sugasanblog01_1里海インタビュー:東京大学東洋文化研究所助教授 菅豊さん(C)

「川はだれのものか―人と環境の民俗学」(2006年。吉川弘文館)

自著を語る……コモンズ論から現代を読み解く【未定稿】

――コモンズ論を考えようとするときの、現時点における、知の総合というか、そういうようなものが備わっているのがとても興味深い本です。まず、菅さんが、この本の中で、川といろいろな部分で深くかかわり、依存してきた川と流域住民の人々の世界を「共的世界」ということばで言い表していますが、まずこの言葉のもつ世界がどんな世界なのかから、お話しください。

【菅】 この本の一番重要なキーワードとして、まず「コモンズ」という言葉を使っています。「コモンズ」という言葉が、現在すこしずつ広まってきています。社会的認知も得られつつある言葉だとおもいます。まず、この言葉について整理をすることからはじめましょうか。

 日本にもさまざまな輸入語外来語があります。そのなかで、コモンズは、外来語概念なのですが、この言葉(コモンズ)は、いまだ翻訳されていない言葉なんですね。  これって、けっこうめずらしいことではないでしょうか。日本人は外来語をたくさん使いますけれども、その言葉のコンセプトを翻訳していくことが普通です。たとえば、コモンズ:commonsとかかわる言葉でいいますと、ソーシャル・キャピタル:social capital という用語が最近よく使われますが、これは「社会関係資本」(「ウィキペディア」同語参照)と翻訳されます。

 翻訳されたときに、はじめて、日本では、落ち着いた状態になってあてはまっていくことになります。では、なぜ、「コモンズ:commons」という言葉は翻訳できないのか、あるいは、落ち着いた翻訳で定着しないのでしょうか(「ウィキペディア」同語参照)。

 先日、京都で行われたコモンズ研究会(特定領域研究「持続可能な発展の重層的環境ガバナンス」ローカル・コモンズ班公開セミナー)で、同志社大学の室田武先生が本場イングランドのコモンズに関する現地調査の中間報告をなされました(室田武〈同志社大学経済学部〉「カンブリア地方のコモンズに関する実態調査報告―コモンズの祖国・イングランドとウェールズにおける2006年法制定に寄せて―」)。

 そこでは、在地の慣習としてのコモンズを取り扱われましたが、そのような、イギリスの在地の制度であり、資源であった実体としての地方慣習が、現在では世界的に広い意味で使われているのです。  この広い意味として(つまり広義)のコモンズという言葉を考えたときに、私が、今それに与えている訳語が「共的世界」という言葉なのです。ほんとうは、「共的なもの」とか、「共的な制度」や「共的な資源」といったほうが正しいとおもうんですけれど、もうすこし、大きくくるめて、制度や資源を含めるものとして「共的世界」という表現をしています。

 共的世界は、私のコモンズという言葉を使うときの認識と同じと考えていただいてけっこうです。共的世界というほうが、コモンズというよりわかりやすいのではないでしょうか。共的制度というときには、「資源」が抜け落ちますし、共的資源といえば「制度」が抜け落ちてしまいます。やはり、コモンズには制度と資源とが両方含みうる言葉だとおもいます。

 でも、共的制度というと、非常に厳密な社会制度のように受け取られてしまいそうですが、そうではないような「共的なもの」というのがけっこうあるんですよ。

 中島さんもご存知のように、海にいけば、漁業権とか共同漁業権のように、きちっと法律に定められて、それこそリジットに決まって、みんなで行うような制度もあれば、そうではなくて、おばあさんたちが、ちょっと海辺に行って、海草をとるとか小魚をとってくる。これは、みんなの認め合ったルールにはなっているんだけれど、「制度」にはなっていないんですね。文面に残してあるとか、法律に書かれて認められているとか、そういうものになっていないものもあります。

 そういう従来は抜け落ちていく、あるいは看過される現象を、コモンズという言葉、共的世界という言葉によって、掬い上げる、あるいは議論の俎上に載せることができるのです。その点で、これらの言葉を、私は重要視しています。

――農林水産業は、広い意味の生業というばあいでも、「業」がついています。ところがそれは、生業という暮らしの稼ぎにまでいっていないような、ふだんからのさりげないオコナイなんですね。しかし、それが、漁業権「制度」の底ささえになって、たいせつな機能をはたしているんです。これを、もっときちんとみていかなくてはいけない、評価していかなくてはいけないんですが、実は、あんまり評価されていないのです。

【菅】 そう、そう。その境目の線を引いたのは、たまさか、この100年ぐらいの間のできごとなんですね。近代的な法律の制度、概念が入ってきて漁業権という整理ができてからなんです。そのリジットな制度や概念にのっかかっていない暮らしの中の「約束ごと」のようなルールの言葉がたくさんあるんです。ほんとうは、これらは全部、一体となって、ひとくくりの話なのです。この部分が抜け落ちている感じがします。

――言葉から考えてみますと、私は、カタカナ語は弱いんですが、その抜け落ちている部分について、この本の最後の結論にあたるセクション「コモンズの現代的変容」のなかで「コモンズを楽しむ」という表現を使いながら「規定されない不確実さ」というように書いていましたね。この本のなかでは、言葉としては使っていませんが、現代における共的世界を理解するときに、とても重要な意味を提起しています。菅さんが共著者となって参加された篠原徹編著『現代民俗学の視点 Ⅰ 民俗の技術』(1998年。朝倉書店)の「深い遊び」として書いたテーマである「マイナー・サブシステンス」の世界のことをいっているのですね。私も、きちんと理解していない概念なので、マイナー・サブシステンスとはどういうことをいうのか、教えてください。

【菅】 マイナー・サブシステンス。一言で言えば「周縁的な生業」です。いままで、われわれというのは、いろいろな生産活動とか、日常の生活というのを、「経済」というものを軸として見てきたと思うのですね。つまり、金を稼ぐものか、金を稼げないものか、金を稼ぐとしたら、どれぐらい稼ぐか、そして、たとえばたくさん稼ぐと、「本業」ということになりますし、少ししか稼げなければ「副業」といういいかたになります。また、まったく稼げなければ、「遊び」だというような分類の仕方で、人々の生き方、暮らし方の活動を、それらの分類で切り分けていく。こういう見方があったと思うんですね。

 ところが、これは、切れないところがあるのだとおもいます。「マイナー・サブシステンス:minor subsistence」は、『民俗の技術』で「マイナー・サブシステンスの世界―民俗世界における労働・自然・身体」を執筆されている松井健(東京大学東洋文化研究所教授)さんが最初に提唱された概念です。

 なにが、マイナー・サブシステンスかという定義については、松井さんのご著作で確認していただければとおもいますが、このコンセプトの重要な点というのは、これまで、経済性というものだけで見て(評価して)いたもの、つまり「量の問題」で見ていたものを「質の問題」でとらえなおそうということなのです。これは、けっこう人類学、あるいは民俗学的な研究分野で、伝統的な生業とか、経済活動を扱う際においては、いわば「思考の転換」なんです。

  • 以下延々と菅さんのお話が続きます。ブログではここまでにしておきましょう。以下どんな内容が展開されるのか、[季刊里海]第2号で編集構成された記事でお読みください。この菅豊さんの発言文の引用転載は未定稿のため禁止します。
  • 構成:By MANA:なかじまみつる

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