2009年12月24日 (木)

「東京湾の社会学」講座で、講師をしてきました

東京湾と人の関わりの歴史(江戸前の海と食文化、海の道)

12月5日、江東区森下文化センターが主宰する平成21年度下期講座「東京湾の社会学」の講師を依頼され、「東京湾と人の関わりの歴史(江戸前の海と食文化、海の道)」というタイトルで話しをしてきました。

以下、Blog版『MANAしんぶん』に載せておきましたのでご覧ください。

http://manabook.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-4fcc.html

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年10月25日 (日)

「MANAしんぶん」サイト復旧しています

MANAしんぶん:http://www.manabook.jp 復旧しました

おわび:10日ほどぼくのメーンサイト『MANAしんぶん』http://www.manabook.jpが破談状態にありましたが、10月17日よりお名前ドットコムのドメイン更新手続きが完了し、復旧しました。MANAへのご心配いただき多くのメールをいただきました。ご心配をおかけし、MANAサイトを通じてホームページサイトを開いている方や、常連アクセスをいただいている方々におわび申し上げます。このドメインもけっこう浸透しているのがまた確認でき、「うっかり」もできないことに気づきました。

今後とも、内容充実に努めますので、よろしくご後援のほどお願いします。

MANA:なかじまみつる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 3日 (日)

泉水宗助「東京湾漁場図」ついにWEB公開

水産総合研究センター図書資料(祭魚洞文庫等)デジタルアーカイブが開始されました。

 4月末、水産庁の研究機関「中央水産研究所」、現在は、独立行政法人水産総合研究センターに属していますが、その図書資料館の田渕館長からうれしい連絡が入りました。

「水産総合研究センター図書資料デジタルアーカイブ開始おしらせ:本日、当館では蔵書の歴史的資料のHP上での公開を順次はじめました。
第一段は、何羨録 ほか15点です。ごらんください。感想教えてください。」として、デジタルアーカイブのURLが次のように記されていました。

http://nrifs.fra.affrc.go.jp/book/D_archives/

「何羨録ほか15点」とあり、次の資料文献がネット上で、前文、全体像を、画像により各ページ、細部まで閲覧することができます。

(1)何羨録(かせんろく):津軽采女, 1723(享保8)年, 118丁, 24cm
(2)
水産図解:藤川三渓著,井上神港堂,1889(明治22)年,上下巻(40,30丁),27cm
(3)
東京名物浅草公園水族館案内:藤野富之助,瞰海堂,1899(明治32)年,17p.,19cm
(4)
少年教育水族館:山崎暁三郎,国華堂書店,1900(明治33)年,32p.,21cm
(5)
龍宮怪こはだ後平治(「こはだ」は魚偏に祭):談洲楼焉馬作,喜多川月麿画,山口屋藤兵衛,1809(文化6)年,15丁,19cm
(6)
第五回内國勧業博覧会堺水族館図解:金港堂,1903(明治36)年,69p. 図版23,22cm
(7)
第五回内國勧業博覧会附属水族館図:作者不詳,制作年不詳,3図秩入,76×56cm,写本
(8)
皇和魚譜(こうわぎょふ):栗本丹洲纂,大淵常範[ほか]校録,1838(天保9)年,50丁,27cm
(9)
水産調査豫察報告:農商務省, 1889-1893(明治22-26)年, 1-4巻
(10)
さかなつくし:歌川広重画,大黒屋版,1911(明治44)年,24cm,折本,1帖7図
(11)
東京湾漁場図:漁場調査報告 第五十二版:泉水宗助 1908(明治41)年 108×69cm 地図資料1枚
(12)
東西蝦夷山川地理取調図:松浦竹四郎著 多氣志樓蔵 1859(安政己未)年 38×52cm 28巻
(13)
曲寸准里内海深浅浜浦図:作者不詳,制作年不詳(幕末~明治初期),143×66cm,地図1枚
(14)
嘉永年中幕府にて調 内洋浅深図(江戸湾内):江戸幕府 嘉永年間(1848-1854) 53×76cm 地図1枚
(15)
江戸湾口水深図:游樂民画 1847(弘化4)年5月23日 39×52cm 地図1枚

どの資料も、MANAが公開を待ち望んでいた貴重かつ現代におても利用価値の高い優れた一級品のそれこそ重文級の文献ばかりです。

津軽釆女(つがるうねめ)の「何羨録(かせんろく)」は、江戸のつり書の原点のような「江戸湾」(東京湾)の遊漁としての釣り場を紹介した資料で、とても有名ですからご存知の方もおおいことでしょう。「龍宮怪こはだ後平治(りゅうぐうかいこはだこへいじ)」の作者の談洲楼焉馬(だんしゅうろうえんば)は、現在の立川談志の「立川流」の祖とされる江戸落語中興の人物であり、戯作者として知られている人です。

画像を見るだけでも楽しくなる作品です。江戸の庶民は、いまの魚名フェチのように、このような戯作や歌舞伎、往来物の魚尽くしや絵草子によって魚介の名称やその形態的な特徴を味とともに楽しんでいたのですね。「皇和魚譜」は、江戸時代の医者であり本草学者でもあった栗本丹洲(くりもとたんしゅう)が編纂した魚類の図譜で、国宝級の色彩豊かな図譜類のコレクションは国文学資料館のほうに移管されていますが、このように淡色ですが、その図譜の研究をするためには貴重な内容を含む資料が数多く含まれています。

これらの貴重な文献資料は、現在の民俗学を、研究者、パトロンとして支えてきた渋沢敬三の創設した私的博物館「アチックミューゼアム」のライブラリーとして知られる「祭魚洞文庫」の水産・漁業文献のセクションを、水産庁に設けられていた「水産資料館」が寄託を受け保蔵してきたものです。中央水産研究所が、現在の金沢八景に移転したとき、そっくりその「図書資料館」に移管され、漁業文書とともに保管され、一般の閲覧も可能になってきました。詳細は、同館のサイトに記されていますのでご覧ください。

「東京湾漁場図」「江戸湾口水深図」などの近世東京湾漁場資料はいま「里海」が論じられ「海の再生」が論じられるなか、とても重要な資料となります。

さて、「里海通信」で紹介する本題は、「東京湾漁場図」にあります。まず、本資料の解説をライブラリーから引用してみましょう。

○明治41(1908)年に千葉県君津郡真舟村櫻井の泉水宗助が、農商務省の認可を受けて発行した漁場図です。図中にたくさんの根や瀬や藻場が記されています。但し、明治漁業法(1909年)による漁業権が確定する前に作成されたものなので、漁業権の区画は記されていません。
  この漁業図と深い関わりがあるのが、『水産調査報告』(農商務省水産調査所,1892(明治25)-1908(明治41))の第7巻第2冊、第8巻第2冊、第9巻第1冊です。この冊の内容は、金田歸逸、熊木治平による『東京湾漁場調査報告』で、この中に「漁場誌」という一節があります。ここに出てくる漁場名と泉水宗助の『東京湾漁場図』に記された漁場名は一致しており、各漁場の解説を「漁場誌」で知ることができます。また。副題になっている「漁場調査報告第五十二版」の「第五十二版」とは、金田らの『東京湾漁場調査報告後編ノ二』(『水産調査報告』第8巻第2冊)の図版に振られた通し番号が第五十一版で終わっていることから、それに繋げた通し番号と考えられます。
(参考文献:桜田勝徳「東京湾の海藻をめぐって」(「日本水産史」日本常民文化研究所偏1957年所収)

つまり「図中にたくさんの根や瀬や藻場」が記されており、これらの詳細な位置、広さ、生息魚介などによって、現在、近代以降特に戦後埋立て開発によって失われた東京湾の漁場の江戸時代末じてんでの姿を移して見せてくれているのです。

MANAは、この「東京湾漁場図」の復刻図の刊行を企画し、添付する図の価値や読み方、また解説にも記されている農商務省が明治25年から20年以上もかけて行なった調査の「東京湾漁場調査報告」の現代語訳も含めて出版するつもりでしたが、資金面などの課題をクリアできず実現せずに現在まできました。

現在ここに、みごとに図の復元が、それもビューアーを駆使して細部まで読むことが可能になり、企画の大半を実現したのも同様です。とてもうれしい限りで、感謝感激です。

またこの図のこととと、「東京湾漁場図」を現代のわれわれに残してくれた「泉水宗助(せんすいそうすけ)」という人物は、いかなる人物であったのかについては、「泉水宗助を探せ」という、小文をまとめてありますので、ご覧ください。

「東京湾漁場図」制作者・泉水宗助を探せメモ:東京湾アマモ場・浅海域再生勉強会にあたって(2007年3月9日):「070309sensuisousukewosagaseMEMO.pdf」をダウンロード

解説文に「参考資料」として紹介されている『桜田勝徳「東京湾の海藻をめぐって」(「日本水産史」日本常民文化研究所偏1957年所収』についても、すでにテキスト化したものが手元にありますので、後日掲載していこうと考えています。

水産庁および水研センターの大ヒットと言えるでしょう。「里海」に関心がある多くのかたがたの利用を期待したいと思います。

(MANA:なかじまみつる)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月19日 (日)

「平和」学から「里海」学へのアプローチ

竹峰さんとの出会い。そして何人もの人々との出会いが続きました

 あっという間に5ヶ月がすぎてしまいました。MANAは、乗り越えなければいけないいろいろの雑事にあけくれる毎日でしたが、桜が散り、草木芽吹き、葉緑まぶしい時を迎え、なんとか、かんとか、ようやく、心に余裕と明るさを見つけることができるようになりました。

うれしいメールが届く

 人の出会いとはなんてすばらしいことなのでしょう。歳とともに鈍りがちな感性に刺激を与え、自信すら呼び戻してくれるのですから、いまさらながらおどろきを隠せません。そして自分を支えてくれてきた人々とのつながりの大切さに、いまさらながら気づかされるようになっているのです。

 2月にはいってからのことでしたが、一本のメールが入りました。[季刊里海]創刊号と『「里海」って何だろう?』(水産振興会)を読んでくれて、ぜひ直接会って話を聞きたい、というのです。三重大学に赴任したばかりという竹峰誠一郎さんというかたからでした。

海と人との絆(きずな)をどうとらえるか

 三重大学生物資源学研究科を中心に活動している「伊勢湾再生研究プロジェクト(社会系グループ)」に所属することとなり、これから、どういう視点で研究調査を進めていくかの方向を決めようと勉強中とのことでした。

 竹峰さんとその後電話で話してみると「海と人とのつながりについては自分なりに考えてきましたが、沿岸域と漁業や水産資源とのかかわりを〝里海〟というキーワードでとらえていく考え方に、どうも自分の中でしっくりこない点があって、伊勢湾〝再生〟という大きなテーマにどう取り組んでいくかの考え方を整理しているところなのです。」という。

 この次に、うれしい言葉を発してくれたのでした。

自然科学と社会科学のスタンスのズレはあるのか

「そんなおり、[季刊里海]と『「里海」って何だろう?』で示された里海をどうとらえていくかの論旨とそれに基づく事例を読み、自分がそれまで聞いてきた〝里海〟をとらえる自然科学的というか生態学的というか、水産学的というか、そういうかたがたの視点とはどこか異なって、人や社会と自然とのかかわりに幹をおいた考え方に、自分の研究スタンスと共通する視点を見つけました。」 というのです。

 どこかが違うのか、あるいは同じだけれど目指すところの方向性が違うのか、どのようなところが現在課題であり、テーマとして進化させていかなければいかないのかを探るために、「ぜひ直接お会いして、自分の疑問をあなたにぶつけてみたい。意見交換しましょう」というのです。

 いやあ、泣けるセリフですね。こういう人物にも、里海という言葉を使うことによってめぐり合えるのですから、ホント〝まってました〟という感じでした。

自然を破壊してきたことの反省をこめて

 MANAが、「里海」という言葉を使うようになったのは、新しい概念の提案というようなかっこのよいものではなかったのです。

 そうとうの昔から、歴史の用語で言うなら「近代」という時代を人が走り始めてから、富んだ国づくりにまい進するようになりました。日本人の暮らしと近接していた自然との関係は、同居(イソウロウなのかなあ)の関係から、だんだんと遠い距離をおくようになり、別居ずまいがあたりまえになってしまったのですね。ムラはマチの対立概念ではなくなってしまう時代がおとずれると、人と自然との関係は、いつのまにか逆転して、人の暮らしに都合のよい〝自然〟や〝ムラ〟〝ムラ〟であってほしいと思うようになるのですね。

 それがさらに、欧米の対立概念と同じような歴史性を秘めた隔離や例外的特別域につながる(というか、日本流で言えば放り出してしまった)ようなシゼンの領域やムラの出現に、それが生み出された原因もきちんと整理しないままに、「再生」や「創生」を語り始めていることに、ほんと危うさを感じているのは、MANAだけではないはずなのに、そういう論議を遠ざけている風潮がうまれているような感じがしてしようがないのです。

 西欧社会とアジア社会との比較の中で、人と自然との関係は、対立的概念と協調的同化概念というとらえ方をする整理もあるけれども、自然と溶け合って暮らしてきたとされた日本の人々が自然に対して為してきた行いは、どうであったのかと振り返ってみたとき、対立と協調のどちらの関係がよりよいのかというような評価や判定ができるような水準をはるかに越えた段階にまで日本という国はきちゃったんだなあというの実感です。

〝リセット〟すればいいのだろうか

 でも、そんな面倒なこというよりも、〝リセット〟すればいいじゃないかというのが、もっぱら最近の主流をなす声なのだろうけれど、それは、〝ちょっと違うだろう〟とむっとして、一面、あきらめ観をもちつつ独り言を言っていたのでは、どうもいけないのじゃないだろうか、と思うようにもなったのです。

 海については、海面埋立てによる沿岸開発の時代がずっと続いてきました。この評価と結果責任についてのきちんとした反省を伴ったケジメがあいまいにされながら、〝リセット〟論がまかり通っているような気がしています。破壊をしてきたり、理想的な計画を立てたけれど、その実ほとんど効果をあげ得ないまま、自然消滅してしまった〝豊かさ〟を標榜した公共事業の数々が行なわれてきました。こうした計画に直接間接にかかわってきた、私をも含めた実行者やその支援者個々、そうした〝張本人〟が、今、為すべきこととは、何かを考える必要があるのじゃないだろうか。

里海はかっこいい「ことば」なんかじゃない

〝里海〟を僕が言うときには、こんなことを考えながらですから、けしてかっこのいいものじゃないんです。

 「漁村」や「漁業」という地域的、産業的な概念の言葉が、沿岸地域とその地先の海を語るときに、これまでずっと使われてきました。しかし、10年ぐらいほど前から、沿岸域の人と自然域の利用について考えようとするときに、このような既存の言葉では、現状やこれからのことを言い表せなくなってきたのです。

 歴史の研究の世界では、網野善彦は、海沿いに住む人々の暮らしは「漁」だけではなく、海運や交易といった幅広いナリワイによって成立してきたのだから、「漁民」という表現より「海民」という言葉のほうがふさわしく、漁村という、「ムラ」の概念だけでとらえるのでなく、商業交易によって成立する「マチ」としての性格に注目しようと主張しました。

 いっけん「漁村」というと、孤立したムラであったり、閉鎖性の強いイメージが一般的であったのですが、実は、海でつながった〝開放〟的な性格をもってきたのです。 このような歴史的な変遷と反省を加えた位置づけによっても、そろそろ、沿岸域の地域概念や類型を改めてみるべき時期に来ていたのです。

竹峰さんの視界に写った「里海」観あるいは「海の再生」観への整理

 ちょうど、関いずみさん(海とくらし研究所主宰・東海大学准教授)からさそわれて、2月13日に「漁村研究会」で、「里海」について話をしてほしいと依頼されていたので、竹峰さんにそのことを伝えると、出席するとのことで、報告の前に2時間ほど意見交換をすることになりました。

 このときの話を、竹峰さんは、実に丁寧に整理をしてくれました。

竹峰誠一郎「里海とは何か」PDF

http://isewan.nikita.jp/09.03.08satoumi-takemine.pdf

「平和学」者の視点から、海と人と地域をどうとらえるのか

 実は、竹峰さんとメールを交換しながら、竹峰さんの専門が、国際関係学の一ジャンルである「平和学」であることを知りました。

 竹峰さんは、和光大学から早稲田大学大学院にすすみ、研究テーマを「米国の核実験場であったマーシャル諸島におけるヒバクシャ調査を(社会科学の観点から)進めてきた。本研究の最たる特徴は、ヒバクシャの視点により立脚して、核問題を見ていこう」(高木仁三郎市民科学基金第1回助成の調査研究報告より)というもの。高木基金助成による「マーシャル諸島アイルック環礁のヒバクシャ調査」を進め、修士論文は『マーシャル諸島アイルック環礁のヒバクシャによる核実験認識:ローカルから見たグローバルイシュー』。

 竹峰さんの平和学には、このようなスタンスから、地域と人と国家とのかかわりの中から「海」が語られることになりました。こうして、かれは、「伊勢湾再生研究プロジェクト(社会系グループ)」において、

竹峰誠一郎「サブシステンス志向の脱開発論の紹介」:

http://isewan.nikita.jp/09.03%20subsistence-takemine.pdf

という、研究調査のアプローチを語ることになります。沿岸域の開発と利用を考えるにあたって、これからどうしても議論しておかなければならない重要なテーマです。

「里海」を考える視点に、こうして「平和学」の視点が加わることは、MANAにとっても大きな刺激となったのでした。(MANA:なかじまみつる)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 1日 (日)

グラフィケーション誌1月号にインタビューされました

新しい海の共有―「里海」づくりに向けて

富士ゼロックスが発行する「GRPHICATION」(グラフィケーション)誌の2009年1月号「特集-共用・共有知を考える」で、MANAをインタビューして、表記のタイトルで3ページGraphication1600901hyousiの記事にまとめてくれました。

同誌を編集制作する、ル・マルス(LE MARS)社の編集長、田中和男さんから昨年秋に電話があり、「里海」という新しいとらえ方について話を聞かせてほしい、ということでした。うれしい依頼であり、新聞記事にコメントが載るのではなく、いつも自分がやっていることを、聞かれる立場になって話し、それを記事にまとめてもらえるというのですから、こんなにありがたいことはない。

出来上がった3ページの記事をPDFにして載せておきます。

「Graphication0901satoumi01-03copy.pdf」をダウンロード

特集の巻頭には、「社会の底辺がじわじわとくずれる気配が強まっている。社会的経済的救済が必要なことは誰の目にも明らかだ。しかし、かつてない危機の全体は見えず、解決策は見えてこない。唯一、希望につながる手だてがあるとすれば、〝共〟に考え、〝共〟に行動する市民の自治意識である。〝共の領域〟を活性化し、かつての〝入会〟やコモンズに見られた〝共用〟〝共有〟の慣習を新たな知として現代にとり戻す試みをみんなで支え、広めていきたいものだ。」と、その企画意図を書いている。

私も同感である。たしかに、〝里海〟を考える視点というのは、海と人についてのかかわりの再構築というテーマにのぞむということなのだから、まさに、「海の入会」の現代的な意味や、その役割を地域と市民とで、もう一度考え直してみることにあるわけだ。

「海の共有」は、田中編集長がつけたタイトルだが、そろそろ、海の利用について、こう考えていかなければいけないときに来ているのであろう。また、冒頭に載る、環境経済学者であり、コモンズ研究について意欲的なとりくみをしている、室田武さんと三俣学さんのお二人の「環境・コモンズ・万人権」の対談は、日本における、人と自然領域と社会経済とのかかわりを、「入会慣行」を法制度の仕組みにうまく組み込んできた近代の歴史を振り返りながら、その評価と検証をかたり、最新のコモンズ研究成果を紹介して、ヨーロッパのコモンズの考え方との対比に話を進めている。三俣さんが最後に、結んでいる言葉を引用しておこう。

「三俣:日英の人会とコモンズの比較を、二〇〇五年にお亡くなりになった平松紘という法社会学者が深く研究をされていて、仮に日本で歩く権利などということを言い出したら、農山村では大騒ぎになるだろうとおっしやっています。たまたまフラッと入ったのは黙認しても、それが権利となったら、そんなものは認めないだろうと。日本の人会が地縁のない者には閉じている、そのことは令後、入会近代化という問題と合わせて考えなくてはいけないことだろうと、平松先生はずっと指摘されていましたね。
 その問題を、私は向こう〔イギリス・マン島の調査研究〕へ行って実感しました。絶対的に私的な権利というものはどこまで認められるべきか、一方、私的な権利をどこまで社会的に制限できるか、またその根拠となる正当性はどのような点に認められるか。これらのことは今後さまざまな分野で問題になると思います。
 北米のコモンズ研究者たちは、コモンズの一つの要件として、コモンズとその外部との関係が人れ子状になっていることが大事だと言う。そのためには、どのような入れ子構造になっているのかを当事者らが認識しなくてはならないと。
 その意味では、日本の人会はもう少し閉じつつも開いていくことが大切かもしれません。例えば人会間交流などを通じて。内部の協業関係を壊さないことを前提とし、共同できるところは外部に開いて、共的領域をもっと広げていくことも必要だと思っています。」

 私がインタビューの中で、里海についての視点でポイントなるのが「長い歴史の中で培われてきた〔漁業者・漁村地域と地先についての〕海のルールを基に、主体はあくまで漁業者とその地域の人が担うのですが、自主的に海の一部を開放し、新しい海の利用を考えようという動きが出てきたのです。これまでの沿岸の海は産業としての利用=漁業的利用と、漁業者をはじめ海沿いに住む人々の生活と結びついた利用=慣習的利用ガ中心でした、最近はここに、地域外、漁業関係者意外の人々による利用=市民的利用を加えて考えなくてはならない時代になってきた」という「海はみんなのもの」として、「海を開く」ことによる新しいルールづくりであることにふれました。「閉じつつ」「開く」、そうした選択をしていくときの地域実態に目を向ける必要があるのだろう。「海の共有」の達成しなければいけない課題が、そこにある。(MANA:なかじまみつる)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年4月20日 (日)

沖縄からの二つのニュースに注目

宮古島DS訴訟の決着「美ら海協力金」の仕組みに期待しよう

先月のある日、二つの漁業権にからんだニュースが、沖縄から届きました。まず、第一が、宮古島周辺海域で10数年間も係争が続いていた、地元漁協・漁業者と、ダイビング事業者とのあいだのダイビングスポット設置とその利用にからむ問題が、決着をみた、というニュースでした。

もう一つは、西表島の網取湾というほとんど未開発で、手付かずの自然環境がのこされた海域に、真珠養殖会社が真珠養殖漁業権設定の手続きを県に対して行ったことに、懸念をいだいたハゼの魚類学研究者からの情報でした。

いずれも、大型の地域開発がからむわけでもなく、全国ネットの情報には全くのることもないので、よほどの沖縄通か、専門の研究者以外、東京や本土に住むかぎりは、まったく知ることなく過ぎ去ってしまう特殊な地域限定マメネタ扱いのように思われがちです。ところが、この背景を探ってみると、海の利用と管理を考える上で、現代もっともホットな最先端をいく課題を提供している情報であることがわかってきます。Miyakodschuraumikyouryokukin

まず、宮古島DS問題の決着について簡単にレポートしておきます。ことの発端は、1997年にさかのぼります。宮古島エリアでダイビング事業を展開していたダイビング業者に対して、地元漁協の一つである「伊良部町漁協」の組合長らが、ダイビングの全面禁止等の仮処分申し立てを地裁宮古支所に行ったこと、でした。もう、それから10数年、漁業者とダイビング事業者との間で、何度もの裁判が繰り返され泥沼化を呈してきた事件ですから、どのような解決をしたか、とても重要なテーマを提供してくれることになりました。

どのような解決をしたのかだけを、先に書いておきます。

昨年半ば、地元漁協の役員改選が行われ、関係漁協の組合長らリーダーが交代し、地元漁業者とダイバー事業者とのあいだでの前向きな話し合いが、ようやく行われることになったのです。そうして、昨年末、約1年間をかけて、宮古地区三漁協と観光ダイビング事業者団体とで構成される「宮古地区海面利用協議会」で基本合意ができました。そして、今年の2月16日に、「宮古地域における海面の調和的利用に関する指針」(ガイドライン)が締結されたのです。このガイドラインにもとづき、「宮古地区海面利用連絡協議会」が設立され、愛称を「美(ちゅ)ら海連絡協議会」とし、「宮古地区における海面利用のありかた、海洋環境保全、観光ダイビング事業の振興、海洋資源保護培養等のために、海の利用者に対し《美ら海協力金》500円」(添付画像がその領収書にあたります)を負担してもらう「美ら海協力金」制度が、3月以降実施されることになりました。

以下に、ここまでに到る長い経過を触れておきます。私は、この宮古島DS訴訟については、それよりも数年前から問題化して、同じく訴訟になっていた、静岡県沼津市大瀬埼沖合いのDS裁判との関わりから、ずっと関心を持って取材を続けてきました。Churaumikyouryokukinmiyakods02

大瀬埼DS裁判は、地元漁協が設置したダイビングスポットを巡り、一ダイバーが、漁協を相手取り、ダイビングをするために地元漁協に支払う「潜水利用料」(潜水券購入代金1回340円)の法的根拠と、違法に基づく徴収であるから、これまで支払ってきた料金の返還を求めて静岡地裁沼津支所に提訴した裁判(「大瀬埼DS裁判」)です。

漁業権の法律的な性格を裁判所が判断をすることになるなど、潜水利用料という、海を利用するダイバーが支払う利用料金について争われた裁判は、これまでほとんど判例のありませんでした。それだけに、この裁判の審議過程、判決から、新しい海の利用をめぐる課題が見えてくる訴訟事件として注目してきました。このテーマに関心を寄せていた法律の専門家や研究者、漁業関係者らのあいだで、勉強会を行い、その結果を、2006年に『ローカルルールの研究―ダイビングスポット裁判検証から』(海の『守り人』論パート2)として1冊の本にまとめてあります。詳細を興味がある方は、それをお読みください。また、ブログ版『MANAしんぶん』の「ローカルルールの研究」カテゴリーにも載せてあります。

簡潔に、この二つの裁判の特徴と、その判決の内容(結論のみ)だけを示しておきます。

A)大瀬埼DS裁判:1993年提訴~地裁・高裁・最高裁・高裁差し戻し審の4度の判決で、2000年漁協側勝訴で、2001年判決確定。:確定判決の骨子は「漁協が設置したDSを利用する際に漁協に支払う潜水利用料は、漁業権侵害の対価としての性格を持つとも考えられ合法であり、原告のダイビング愛好者の請求を棄却。」漁協勝訴、ダイバー敗訴。

B)宮古島DS訴訟:1997年伊良部町漁協がダイビング事業者らに対し、「漁業権」水域内でのダイビングを妨害排除請求権にもとづきダイビングスポットの全面禁止を求めたもので、地裁、高裁とも、漁協側敗訴、ダイバー側勝訴。最高裁で2002年漁協側の控訴棄却し、判決確定。しかし、以後、損害賠償に関する民事訴訟が継続。

大瀬埼DS事件では、漁協が勝ち、ダイバー側が負け、宮古島DS裁判では漁協が負け、ダイバーが勝つという、ごく単純に一勝一敗の見かけの判断をしがちですが、そうではありません。この二つの裁判は、同じように漁業者とダイバーの対立があり、「漁業権」の性格について判断を求めている、という図式から成り立っているように見えますが、実は、根本的に、もともと、それぞれ海域における海の利用ルール実態が異なっていたのです。

つまり、こうです。

A)大瀬埼DS設置海域:地元漁業者と漁協と、ダイビング業者とダイバーとの間に、地域自治体も介して、ながい話し合いの末に、それぞれ関係者の合意に基づきDS利用水域と利用料支払いの地域ルールが作られ、円滑に機能していた。→ダイバーが安心して利用できる水域になっていた。→海域の利用と管理について安定性の存在。

B)宮古島DS係争海域:地元漁協とダイビング事業者との間に双方の話し合いによって合意した地域ルールができていなかった。→漁業者のリーダーによる一方的な原則ダイバー排除の考え方と、漁業者主導による利用料の設定などの実態がある海域であった。→つまり、ダイバー(一般的な海のレジャー利用者)にとって、安心して利用できる水域ではなかった。→海域の利用と管理についての安定性の欠如。

違法性のない海の利用について考える限りにおいては、地域で合意して安定的に機能しているルールの存在の可否が、一方で「漁協側勝訴」、一方で「漁協側敗訴」の裁判官の判決が導かれたという背景が存在しているのではないかという仮説に基づく「実態」に着目しようと考えたのです。この、安定した地域の合意に基づいて形成されたルールを「ローカルルール」と呼ぼう、という提案が、前述した「ローカルルールの研究」の導き出した結論の一つででした。

そして、宮古島の10数年もの永い係争の歴史が、昨年6月の地元漁協のリーダーの交代によって、地元漁業者とダイバー事業者とのあいだでの前向きな話し合いの場作りがようやく出来上がり、昨年末、約1年間かけて、宮古地区三漁協と慣行ダイビング事業者団体とで構成される「宮古地区海面利用協議会」で基本合意ができ、今年になって、2月16日に、「宮古地域における海面の調和的利用に関する指針」(ガイドライン)が締結されたのです。

このガイドラインにもとづき、「宮古地区海面利用連絡協議会」が設立され、愛称を「美らうみ連絡協議会」とし、「宮古地区における海面利用のありかた、海洋環境保全、観光ダイビング事業の振興、海洋資源保護培養等のために、海の利用者に対し《美ら海協力金》500円」を負担してもらう「美ら海協力金」制度が、3月以降実施されることになりました。

地先の海の利用が、安定的に、そして安全に実施されるということの前提には、前述したように、地域の関係者どうしの合意に基づく自主的に創出された「ローカルルール」の存在が前提になると書きましたが、宮古島の海にも、こうして、また、一つ。、宮古島方式による「美ら海協力金」制度という「ローカルルール」が誕生し、これから、育っていくこととなったのです。

詳細な内容は、別信にてまた書くことにします。次に、西表島網取湾でおきた真珠養殖漁業権設置の問題をレポートしましょう。(続く)

By MANA:なかじまみつる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

網取湾で起きている漁業権設定の動きとは?

真珠養殖漁業権免許の申請の動きと現地の反応

第2番目の情報とは、沖縄県西表島の網取湾で起きていることです。これまで共同漁業権以外の漁業権が設定されてこなかった海域(網取湾)に真珠養殖漁業権を新たに設定したいと考えた、真珠会社(R)と、地元関係漁協(A)、そして、地元漁業者(B:複数)、ダイビングなど観光事業者(C:複数)などの対応についてです。漁業権の更新年(20年9月)にあたり、いまだ話し合いが継続中という余地も残されている事例でもあるので、ことの内容の概略がつかめる程度のレポートにとどめ、問題の本質にだけは迫っておくことにします。

まず結論(途中経過ですが)のみを、書いておきましょう。R社は、前回の漁業権更新(昭和15年9月)時においても、同じ網取湾海域において、真珠養殖漁業権(区画漁業権)の免許を申請したが、

Iriomoteisigakikaiikizu_4

平成15年2月14日に八重山地域で公聴会を開催しておりますが、そのときに公聴会で意見を述べられた方たち、Yダイビング協会ですとかT大学の沖縄地域研究センター、環境省の自然環境局の沖縄奄美地区自然保護事務所、それからY漁協組合員等の方から漁場計画について、網取に真珠と真珠母貝の漁場を、養殖の漁業権を免許するという案についてそれぞれ反対の意見が出されております。これらの意見を踏まえて、海区漁業調整委員会は公聴会の状況を持って帰って海区漁業調整委員会を開いて、海区漁業調整委員会としての最終的な答申の意見を決定し、県にその旨を答申したということで、それを受けて県が漁場計画案から外したということでございます。(平成16年3月10日沖縄県議会予算特別委員会議事録より、県水産課長答弁。:ネット公開サイトより関係部分を抽出。固有名詞はいちおうアルファベットの略称としました。)

上記理由により、その申請は通ることがなかったという経緯があります。そして、今回の更新時も、R社は、同じ海域の区画で、真珠養殖漁業権免許の申請を行おうとしたわけです。ただ、前回の申請却下の経過をふまえて、「Aの合意をとりつけて臨んだため、免許申請は、通るのではないか」(私に第一報の情報を提供してくれた方の懸念の言。)ということから、いく人かの情報通の方に連絡して確認してみると、おおよそ、次のようなことがわかってきました。

まず、3月某日開かれた、この件に関する公聴会においては、やはり、地域の反対意見が占め、けっして、地先の共同漁業権を管轄する地元漁協が、無条件で賛意を表していることではありませんでした。

地元漁協では、確かに、R社よりの真珠養殖漁業権申請について、地域振興のために貢献したいという提案には好意的に受け止めたようですが、網取湾及びその周辺地域で漁実績のある関係地区漁業者の同意を前提とする、という条件をつけての意見であった、というのが事実のようです。

しかし、R社は、公聴会が開かれる前までには、関係地区の漁業者個々人との意見交換と合意の手続きを行っていなかったことが判明します。観光利用の関係事業者は、反対の以降を強くもっていて、「地域漁協が賛成している」というのは、実態として事実ではなかったということになります。新たに免許を受けたいと云う参入者にとって、自分にとって都合よく話を聞いてくれて賛意を示してくれる人の合意を取り付けて、「地域も賛成してくれている」というのは、地域全体の合意手続きを踏んでいることには、ほとんどなっていないということのよい例だったのです。

「漁業調整委員会で審議にかかる以前に申請は取り下げざるを得ないでしょう」という沖縄の漁業権事情に詳しい知人の個人的意見のとおりに事態は進んでいったというのが、現在までの経緯です。

この網取湾地域は、西表島と石垣島に挟まるように「石西礁湖自然再生」構想(環境省管轄事項)に基づき、わが国最大規模の珊瑚礁を保護し、再生計画が進められている地区に隣接しています。網取湾の南隣側には、わが国で唯一「海域自然環境保全地域」に指定されている崎山湾(128ヘクタール)があり、網取湾も崎山湾に劣らず、貴重な自然域であることは、同構想を広報している「石西礁湖自然再生協議会」(地区漁協・漁業者・漁業関係者・観光事業関係者・地区宿泊施設関係者・自治体などで構成)ホームページを参考にしてください。

規模の大小に関わらず、新たに海域の利用や開発をしようとするときの「地域」の合意手続きを踏むという作業は、関係漁協の合意をとることだけで、ことたれり、とすることは、大いなる誤解であることを知るべきでしょう。この網取湾を含む海域は共同漁業権第24号という石垣島と西表島全域を含む一つの水域で設定されています。この水域は石垣市にある八重山漁協一つに免許されていますが、地域ごとにそれぞれ利害関係を代表するいくつもの輻輳した漁業者のグループ(ないし個人)が存在しますから、地域の合意をとるということは、関係水域の利用や開発の行為で損害(影響)を直接こうむる関係漁業者の合意が最優先でなければなりません。

近年、漁協の合併により、県内一単協となったり、広域の水域を一つの漁協が管轄し、免許を受けることが多くなってきていますから、沖縄県の事情だけではなく、本土各地区においても、合併以前の昔から地先の水面を利用管理してきた関係地区(旧漁協・支所など。漁業法における「部会」。)ごとに合意をする原則を再確認したり、広く知ってもらうことが必要になるのだと思います。

By MANA:なかじまみつる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月22日 (火)

刺激的だった内山節さんの基調講演

「里としての海を考えるシンポジウム」が開かれました

 1月19日「里としての海について考えるシンポジウム」(主催:JF全漁連、海と魚と食を考える会。水産庁委託事業「環境・生態系保全活動支援調査・実証事業」にもとづく開催)が開かれ参加をしてきました。とってもよい会になったと、率直に思いました。印象に残った発言を、MANA流の言葉に置き換えて書いてみることにしましょう。
○里海に置ける漁業者と市民の協働関係の位置づけなど、従来は、ことばとしてもあまり使われてこなかった考え方が提起され、その討議もされたことは、漁業関係者が多い性格の会合としては、とても有意義であったと思います。
○内山節さんも、これからの沿岸域の人と海とのかかわりを考えるとき、漁業権の位置付けとその意義を講演のなかで話していただいたことも、時宜を得たものだとおもいました。
○そして、内山さんから、刺激的な言葉が飛び出しました。
○ものの所有と利用の概念を、つまり「みんなのもの」について、「みんな」の概念のなかに、日本人の旅人だけでなく、急増してきた中国人や韓国人旅行者をも入れざるを得ない時代が来るかもしれない、というのは、哲学者的予言として(予言といって済まされない現実味のある)、なるほどなあ、とおもいました。この一言がきけただけで、僕としては、満足でした。
○さらに、内山さんは「ぼくは小さなエリアですが山の所有権をもっていますが、森林の所有というのは、都会の人は、自分の住居の土地の所有権とおなじようにおもわれるかもしれないけれど、実は、ちょっとちがうのです。森林(の土地)を所有しているというのは、ムラの人々にとっては、土地に生えている木を所有しているということと考えているのであって、木の成長を阻害したりする行為をしない限りは、その土地の木以外の山菜をとったり普通の茸をとったりする利用の立入りは自由なんですね。だから木の植わっている地面はみんなのものなんです……」というような話がありましたが、これは、「所有」と「総有」の考え方というのは、じつはその境界線は、時代のながれでどんどん変化をして行くというけれども、その原点にあるものをしっかりとつかんでおこうといっていることで、とても重要な発言だとおもいました。
○たとえば、農地の所有は、現在では、住居の土地所有と同じような、あるいはちかい所有の形と考えていますが、じつは、これにも、そのむかしは、土地と耕作権とが分離していた長い歴史があって、その「名残」が、現在どのように、日本の土地所有と総有の権利の性格に現れているのかを考えるために、かっこうの問題提起でもあったわけです。
○みんな、海の所有と総有、その所有者と利用者、そして管理者に置き換えて、考えるときに、同じテーマを論じ考えることになります。
○また、「森は海の恋人」のご本人畠山さんが参加されていて、「縦割り行政」の弊害を指摘し、「漁師にも水利権の主張ができるはずだ」というおそろしく刺激的な発言も飛び出しました。
○畠山さんは、昔から、森と川と海との連環を考えることで、それをつなぐ水に着目されて、漁師にとって海を使い続けることは、とりもなおさず川の水を使い続けてきたのであり、漁師にも水利の権利を主張してよいと主張されてきたのですが、その主張が、里海という考え方が普通になってくると、じつに現代的な課題として、突拍子もない提案ではない現実感をもってくるという(私は、鎌首をもたげてくるという表現を使いますが、漁業権を消滅させても、その海は権利のなくなった海にもどるのではなく、漁業権を近代法の形に規定した、その前の慣習の権利が前面に出てくる……)奧深い意味が込められているのですね。
○このシンポジウムで語られた発言を、逐一文章にしていくと、「いまなぜ里海ということばを使って海について、あるいは海の利用について語らなければならないか」について、ものすごく具体的かつ重要なことがらについて、語られている入門編になっていること気付くはずです。

◎ブログ版「MANAしんぶん」記事にシンポジウムをMANAがテープ起し、構成して原稿化したファイルを公開してあります。

http://manabook.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post-4796.html

MANA(なかじまみつる) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 4日 (金)

里としての海を考えるシンポジウムが開かれます

「里としての海を考えるシンポジウム」が開催されます―漁業者と市民との意見交換を期待します

昨年末に表題のシンポジウムの案内が送られてきました。主催は、JF全漁連と「海と魚と食を考える会」で、水産庁の委託事業「環境・生態系保全活動支援調査・実証事業」の一環で開かれるものですが、主催者事務局は、漁業関係者だけではなく、ひろく海に関心を持つ市民の方々の参加を呼びかけています。

開催日時は、新年1月19日(土曜)午後1時から4時まで。会場は、虎ノ門パストラル5階「ミモザ」です。

里としての海を考えるシンポジウム実施要領PDF

参加招請の範囲に漁業水産関係者という文字がありますが、事務局では、官費事業のかかわりから書いているだけで、ぜひとも、広い海好き市民の参加を期待したいということです。参加人員が150人と限定した部屋のため、PDFに含まれる申込書にご記入の上、MANAあてメールでも、FAX(03-3319-3137)でも送っていただければ、事務局にMANAから連絡をとります(勿論事務局に直接でもOKです)。

基調講演に、里山や森と人間との大切なつながりを一貫して論じ続けてこられた哲学者の内山節さんを招いたことにも、沿岸漁業のこれからを考えるときに、沿岸域と地域社会、あるいは市民との連携プレーを以下にはかりながら、海という自然域の持続可能な利用と管理をはかろうという、新たな取り組みにチャレンジしようという姿勢が現れているということなのでしょう。

内山さんは、講演のタイトルを、「里海へのメッセージ」とし、実施要領に、次のように書いています。

海を生産と営みの場だと考える人々の結び付きを、新しくつくりだしていく試み、おそらく問われているのはそのことなのであろう。それは漁民だけのものではないかもしれない。漁村とともに暮らす人々や、永遠の漁業を保証したいと思う都市の人々をふくめて、共有された世界としての海をみつめなおす。そのような試みのなかから、私は新しい協同の世界はつくられていくのだと思う。海をまもる協同的な取り決めや行動、新しい慣習が、ここから生まれていくのだと思う

「海をまもる協同的な取り決めや行動、新たに生れる慣習」の必要性を指摘し、「共有」と「協同」の世界を作り出すこころみを、はじめよう、と訴えているのです。沿岸漁業界だけで、自分たちだけの社会や経済の発展や維持について期待し論じる時代は、もはや終わったともいえましょう。また、そのようなことの期待の実現は、もはや不可能でもあるのです。

その意味で、今回のシンポジウムは、「持続的な漁業活動」を続けていくために、市民を協力者としていかに地域概念や経済概念に取り入れていくかが問われているという意味で、「協同」あるいは「協働」という考え方を「共有」という考え方のもとで、どのように実現して、「これから」につなげていくかを、「考える」シンポジウムという位置づけができそうです。

シンポジウムのパネラーには、松田治さん(広島大学名誉教授)、加瀬和俊さん(東大社研教授)や金萬智男さん(漁師、盤州里海の会)、足利由紀子さん(大分佐伯の水辺に遊ぶ会)、乾政秀さん(水土舎)など、里海活動実践者と意欲的研究者等が参加しています。

また、そのように、意見交換が前向きにされることを、期待したいと思います。短時間で論じられる範囲は限られるとは思いますが、その一歩を進ませる「芽」が生え出てほしいなあという気がします。

全漁連内に同事業の報告媒体としての「里海通信」でも案内していますが、MANAとしても、開催趣旨に賛同し、ホームページ、ブログを通じて参加を呼びかけております。水産庁や全漁連においてもすでに「里海」としての漁村や沿岸漁業地域の活性化を図ろうと、従来の漁場保全という観点から、さらに一歩も二歩も踏み込んで、生態系保全や再生活動の支援などの、広義の漁業漁村活性化対策にとりかかったということだと思います。

MANAも、討議内容のとりまとめなど、微力ながら協力していくつもりですが、ぜひ、当ブログや、MLへの案内を通じて、興味、関心のある方、一言もの申したい方は、ぜひ参加されることを期待しております。(MANA:なかじまみつる)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 3日 (木)

謹賀新年 2008年子年

本年も宜しくお願い申し上げます。

080103sisimai_2 正月三日、年賀状の返事を出しに沼袋郵便局まで出かけると、あら、珍し、お囃子にのせて踊る獅子舞に出会いました(写真:上)。地区青年会のお囃子の会が昨年から始めたとのこと。一軒一軒回るのではなく、事前に舞わせてくれる〝協力者〟を募っておくらしい。うれしくなって、後に付いて回っている子どもたちと一緒に数軒回りました。

MANAの年賀状は「天空を舞う[飛鼠:ヒソ]」のことを書きました。画像は、「山海経広注」(早稲田LDB:康煕6年序版より)の「山海経図:獣属」よりとりました。この図になった「飛び鼠」(ヒソ)は、同図を使用している日本語翻訳版「山海経―中国古代の神話世界」(高島三良訳)で使用しているテキストと画像と同じものです。同書では、第三北山經のうち、「北山の三の巻」(60ページ)に載っています。年賀状の文面に若干加筆して次に載せます。

Hisosengaikyou干支の魚と飛び鼠:本年もよろしくお願いいたします。

 和魚名に子の付くサカナを探すと、ネズミザメ、ネズミギス、ネズミヒゲ、ネズミダラ、ネズミギンポ、ネズミゴチ、ネズミフグ、ネズミカジカ、他にネズミダラのアタマに、スルガ・キヘリを冠した10種が見つかった。長いヒゲと細い尾、小さな目、鼠色の体色などのイメージを重ねて付けられた名前でしょう。また、ネズッポ等の方言愛称をも加えればもう少し数は増えそうです。

 日本では、ネズミ(鼠)というと、夜・闇・地下を象徴する獣ですが、中国の古い神話世界の空想上の動植物類がたくさん登場する「山海経」という文章には、背中の毛を逆立たせて天空を飛ぶヒソという頭鼠体兎の奇獣譚が載っています。

 日本でも、寝盗(ネ・ヌスミ)の転(「言海」)の語源説にあるように良(好)からぬケモノとして処遇されていますが、夜の眼:ヨメから、嫁:娵をも連想させて「嫁の君」と呼び、年の初めに祝詞がわりに古くから使っていたといいます(物類称呼:岩波文庫版34ページ)。

 十二支の子を語る以上は、年初から凶では、あまりにつごうが悪いと、大黒天を守り豊穣をもたらす福鼠の経典からの引用譚のように、暗から明へと切り替わる喩が現実となるような干支として解釈してきたのでしょう。

●参照:【物類称呼】(岩波文庫版)の原文および【嬉遊笑覧】の「鼠のよめ入り」の記事は「本文(続き)」をご覧ください。

続きを読む "謹賀新年 2008年子年"

| | コメント (0) | トラックバック (1)