泉水宗助を探せ!
「東京湾漁場図」(明治41年)を制作した泉水宗助ってどんな人だろう
3月9日(金)に神奈川県水産技術センターが主催する「平成18年度第4回 東京湾アマモ場・浅海域再生勉強会」 が、横浜市波止場会館で開かれ、出席してきました(勉強会の内容については、リンク先をごらんになってください)。
私のお目当ては、アマモ場再生の取り組みについて知りたいことはあったが、次の2つのプログラムを楽しみに参加しました。
(1)講演「横浜の海の森の過去から現在」横浜市漁業協同組合組合長・小山紀雄さん(聞き手:同センター工藤孝浩さん)
(2)「明治41年東京湾漁場図と旧版海図―温故知新」(県環境農政部水産課)
金沢区の埋め立て前の小柴周辺の漁村と漁業、地先のアマモ場のようすを小山組合長がとてもわかりやすくはなしてくれました。(2)については、私が、だいぶ前から「東京湾漁場図」とその制作者「泉水宗助」(せんすい・そうすけ)について調べてきたこともあって、次のような小文をまとめ、参加者に配っていただきました。同文を以下に載せます。
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平成18年度第4回[東京湾アマモ場・浅海域再生勉強会にあたって]
「東京湾漁場図」制作者・泉水宗助を探せメモ
[季刊里海]第2号(もっか急ぎ編集中です)掲載の第1特集「現古東京湾を探検する」(仮題)では、今回の勉強会で使用される「東京湾漁場図」(明治41年農商務省監修、制作者:泉水宗助)の現代的価値について、民俗学研究者の尾上一明さん(元浦安市郷土博物館主任学芸員)と動物考古学研究者の西野雅人さん(元市原市文化財センター)及び編集主幹中島満により検討した論文・ノートを掲載するつもりです。
東京湾漁場図が制作されるにあたっては、もともと明治10年代後半から農商務省水産担当官(金田帰逸技師・熊木治平技手)らによって調査されてきた東京湾の生物・海洋・地質を詳細にまとめた「東京湾漁場調査報告」(農商務省)のデータ、および現在震災と戦災により消失したといわれる海図制作調査資料が元になっています。
図は、報告の付録として添付されたもののほかに、泉水制作図、東京帝国大学名の付された図など数種類があることがわかっていますが、原図の内容については、(詳細に対照していないため確証はないが)同一版によるものと推察されます。漁場図は、今回複写され掲示されているとおり、漁場、干潟や砂洲などの沿海域の性質ごとに、沖に向かって、いわゆる根・瀬・藻場の位置、名称を詳細に、古来から伝承されてきた地域名称によって記されており、現在広大な埋め立て開発用地造成により消失しているものがおおいだけに、現代の姿と対照させ、いわゆる「再生」目標の目安にするためにもとても貴重なデータであろうと思います。
この図については、民俗学者で初代水産庁水産資料館長でもあった桜田勝徳による「東京湾の海藻をめぐって」(渋沢敬三先生還暦記念出版「日本水産史」1957年所収)と題する詳細な解説・研究があります。今回、前記尾上さんにより、「桜田解説を解説する」果敢な読解作業によって、桜田が歩いた東京湾の民俗誌および漁業誌を、現代の読者にわかりやすい情報知見として提供しています。
また、1000ページ近い「調査報告」については、データ量の多さや旧字体による読みにくさを、西野さんによって、現代語表記および現代語翻訳(リライト)作業をしていただき、貴重な東京湾全体の明治期における自然生態の状況を読み取ることができることと思います。
それと、桜田もその経歴についてまったく知らなかった泉水宗助とはいかなる人物であったのかということが、中島の興味の対象にずっとありまして、ぼちぼちと文献をあさって調べてきたものを「泉水宗助を探せ―漁民にして自由民権家、この人物ははたして何者であったのか?」という「ルポ泉水伝」を中島がまとめています。
ということで、泉水宗助は、まだまだ文献が少なく、なぞが多い人物なのですが、どんな人間であったのか、昭和8年に千葉県君津郡木更津尋常小学校編・刊になる「第37号 郷土読本」中の「高学年用」編「郷土の先駆者」の第1番目に取り上げられた「泉水宗助」紹介を以下に全文引用(―本文続き―)しておきますので、ご覧ください。
右上の写真は「木更津市史」に掲載(872ページ)されているものです。旧字体は新字体に、和数字は洋数字に置き換え、一部わかりやすくするために句読点の挿入、送り仮名をおくる等中島により最小限度の改変をしています。
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